「次に結果を残せなかったら、野球をやめる」
2010年、家族や友人の反対を押し切り、大学を休学してまで挑戦したアメリカ野球。アメリカという巨大な国は「メジャーリーガーになる」と言う弱冠20歳の若者の夢がどれほど「はかない夢」であるか、現実を突きつけた。うれしいこと、苦しいこと、そして悲しいこと、どれほど素晴らしい経験を積もうとも、メジャーリーグという世界には届くことはないだろうと教えてくれた。
それでも、日本に戻った私は、なぜか次の渡航に備えアルバイトとトレーニングを続けていた。翌年の1月から始まるアメリカのトライアウト(独立リーグの入団試験)で結果を残せなかったら、野球をやめる。それだけを考えていた。4月から復学をするか、もう一年休むか、または大学を辞めるのか。決めなければいけない時は、刻々と迫っていた。
入団試験を受けに、大陸を転々

2011年1月、私は再びトライアウトを受けるため、ロサンゼルスを経てアリゾナへやってきた。アリゾナでは、2009年以来の再会となった選手やコーチから「英語も野球も成長したな」と声をかけられ、身体的にも、精神的にもアメリカ野球を楽しめる余裕がでていた。
その年、ペドロ・ゲレーロと言う1980年代にMLBで活躍したドミニカ人の指導者と出会った。アメリカ独立リーグで球団を指揮する予定だったペドロ監督に気に入られ、2月早々には彼のチームへの入団が決まっていた。しかし、待てど暮らせど、ペドロ監督自身の就任が決まらず、話は難航しているようだった。

アメリカにいる間に契約を持ち帰らなければ、野球をやめる。
私は、いてもたってもいられず、メキシコからサンディエゴ、ロサンゼルス、そしてサンフランシスコまで北上しながらトライアウトを受け続けた。契約にはたどり着けなかったが、知り合いのつてを頼りに、各地を転々としていた。
アメリカのテレビに映った、津波にのまれていくふるさと
震災2日後には、ニューメキシコ州でトライアウトを受ける予定を控えていた。「こんな時にトライアウトを受けに行っていいものか」とも思ったが、ただ、自分が今できることをやりきろうとだけ思い、野球仲間と約束していた集合場所、アリゾナ州フェニックスへ飛んだ。
特別な思いで挑戦した一発勝負

フェニックスで野球仲間と合流し、ニューメキシコ州まで片道600キロの距離を、車で突き進んだ。レンタカーの契約は1日(24時間)であるため、出発直前にレンタルし、午後からのトライアウトに間に合うよう、朝の4時に出発した。レンタカーを返す都合もあり、ニューメキシコに滞在できる時間はトライアウトの時間を含め3時間程度の一発勝負。野球仲間が免許を持っていなかったため、私は約7時間の運転を続けた。
カラッと晴れると青い空が、どこまでも透き通って見えるアメリカの空。私たちは予定通りの時間に現地へ着き、トライアウトが始まった。トライアウトでは、各自アップの後に60ヤード(約54メートル)のタイム測定があり、打撃練習、守備練習、そして簡単な試合形式の試験が行われた。
トライアウトの結果は
特別な思いで挑戦したトライアウト。その合格者に、私の名前があった。2011年3月13日。アメリカ独立リーグ界の底辺と言われるペコスリーグ「ラスクルーセス・バケローズ」と、私は契約した。それから数日後、私は混乱の日本へと戻った。
Respectfully,
TOMA