再びアメリカに挑戦

契約できるチームを探して、フロリダ州でトレーニングと試合を繰り返した

2012年1月、私は契約できるチームを探して、フロリダ州でトレーニングと試合を繰り返していた。フロリダ州へ行ったきっかけは、2011年に出会ったドミニカ出身のベニー・カスティーリョ監督という恩師から声がかかったことだった。ベニーとは日本へ帰国後も連絡を密にとっており、母国は違えど、ベニーも私のように夢を抱き外国人としてアメリカに挑戦した大先輩だった。

私が彼と出会った当時は、すでに指導者としてさまざまな国籍・文化・言語の選手をまとめ上げ、2000年に最高監督賞を受賞し、2003年には指導陣の一人としてフロリダ・マーリンズ(シングルA)を率いワールドチャンピオンに輝く功績を残していた。

そんな彼に大きな影響を受けた私は、野球以外の時間はアメリカにある中南米(パナマ、キューバ、ドミニカなど)のレストランへ行ったり、そこで出会った中南米の人々との交流を楽しんだりして、野球以外の時間も自分なりに楽しめるようになっていた。ベニーとともにフロリダで行われているMLBスプリングトレーニングを視察し、野球関係者の仲間も増え、生きていくためのネットワークが大幅に拡大した時期だった。

ついに独立リーグのチームと契約。ムードメーカーに

テキサス州リオグランデバレーのチーム「ホワイトウィングス」の本拠地

その年の5月、テキサス州リオグランデバレーという街にあるホワイトウィングスというチームと契約することができた。ここのチームは、国際色豊かでドミニカ、ハイチ、ベネズエラ、キューバ、メキシコの選手が所属していた。アメリカ国籍を持っている選手が大半であるが、やはり最初は同郷同士で集まり、少し異様な雰囲気があった。

同郷の選手がいない私は、出身国間の利害関係がなく、どの国の選手とも仲良くなりやすいと言うアドバンテージがあった。野球チームという小さなコミュニティーでも、移民の国アメリカでは、最初は同郷の者同士が生きるために肩を寄せ合う。当時から、自分と違う文化背景に違いを持った環境で育った人々に興味があった私は、各国の選手たちが幼少期にどんな環境で野球をしていたのかを練習後や昼食の時間に聞いて歩いていた。そして、誰とでも満遍なく仲良くなることが得意だった私は、いつしかヘタなスペイン語で選手たちの笑いを取り、選手同士を繋ぐ存在になっていた。

ここではみんな、野球を楽しんでいるだけ

拾ったおもちゃのボールと木の棒で、みんなで野球をしていた

ある日の朝食後、拾ったおもちゃのボールと木の棒で、みんなで野球をしていた。野球といっても、あくまで遊びなので、即興で作り上げていくルールや誰も予想しない成功が笑いを呼び、場が和む。さまざまな文化や歴史的背景を持った国同士でも、まさに「遊び=ゲーム」を通して、みんなが一つになっていくのを感じていた。私と同じポジションを守りフィラデルフィア・フィリーズのマイナーで9年間プレイしてきたフィデールが「ここでは肌の色も、経歴も何も関係ないよ。野球を楽しんでいるだけさ。トーマ、野球楽しいだろ?」と言ってくれたことをはっきりと覚えている。

日本にいたときより野球を続ける環境は厳しかったが、一日一日の新たな発見が楽しく、日々グラウンドへ行くのにわくわくしていた。野球をする上で、「こんな発想・やり方があっていいんだ」という発見が選手としての心の余裕を生み、技術力も向上していくのを感じた。アメリカに挑戦して3年、日本にいたときに感じていた、大好きな野球への恐怖と苦痛、そしてギスギスした緊張感に不安を覚えながらプレイする私は、もういなかった。

Respectfully,

TOMA